ラヴクラフト『月の湿原』にみるダンセイニ

ラヴクラフトアイルランドを舞台にした短編をひとつ書いている。『月の湿原』である。ラヴクラフトアイルランドといえば、ダンセイニの故郷であり、まさかラヴクラフトが見逃すはずはないだろう。舞台は南西部先端のキルデリーではあるが、悲惨な目に合う登場人物バリイの雇った作業員はミーズ州から連れて来られている。ミーズ州はダンセイニ城の所在地であり、ダンセイニアンにとっての聖地といえる場所である。どうでもいいことだが、ダンセイニ城の住所は、「アイルランド共和国、ミーズ州、ダンセイニ城」である。

しかし、アイルランドの地理からして、ミーズ州という選択はおかしいのだ。キルデリーに作業員を呼ぶのであれば、南部最大の都市コークがまず一番に考えられるし、あるいは東部にある首都ダブリンということになるだろう。ダブリンの北側すぐにあるミーズ州から警官がやってきたと冒頭に短く描写があるが、警官が来るのであれば、なおさらコークが正しい選択だろう。

ラヴクラフトはもちろん、こんな地理上のささいな矛盾は承知の上でミーズを選択したに違いない。執筆は1921年、ダンセイニ熱の高まりおびただしい時期である。加えて、文芸仲間の集会で朗読するために書いたということであるから、ちょっとしたいたずらを込めるのも楽しみのひとつであっただろう。

なお、執筆時点ではアイルランドはまだ独立しておらず、英国と独立をかけて戦争をしていた。ダンセイニがボストンで講演したときに、ラヴクラフトが目にした光景――アイルランドの窮状について話さなかったダンセイニにアイルランド人が詰め寄っていた――はこの戦争を指すと思われる。