ダンセイニ「驚異の窓」について

「驚異の窓」は従来「不思議な窓」として知られる作品である。翻訳としては河出文庫のものが現在は流通しているが、戦前の「新青年」に訳されたこともある。またファンジン「FANTAST」に歌人佐藤弓生さんが訳されたものもある。(これは現在ではWEBで読むことができる。他の訳文よりもやわらかい印象があって、より童話風に訳されていると思う。個人的には一番好みだ。http://homepage3.nifty.com/annabel/fushiginamado.htm)ダンセイニの作品としては古くから訳されてきているわけだが、紹介記事や評論で言及されることも少なく、同時期に発表された「バブルクンドの没落」や「妖精族のむすめ」などと比べると、地味な作品という印象はぬぐえない。小品である、といってしまってもいいと思う。味わい深さがないわけではないが、どこか物足りない。
そんなわけで、なぜそんなことになったのか、あるいはこの作品にいいところはないのか、ダンセイニの意図はあるのか、そういったことを探っていこうと思っている。しばし駄文にお付き合い願いたい。さて、まずは物語をみてみよう。あらすじは次のようなものである。
勤め人のスラッデンには、空想壁がある。ある日のこと、彼は露天で不思議な窓を手に入れた。その窓を覗くと、ひとつの別世界の都市が見られるのである。これを気に入ったスラッデンは、この都市を「黄金の龍の都」と名づけた。スラッデンは都市の由来を調べてみたものの、旗に描かれた龍の文様も、夜空にかかる星座の形も、ひとつも調べがつかなかった。やがて都市は侵略者に侵され、壊滅しようとしていた。スラッデンは都市を助けようと、窓に火かき棒を突っ込んでみたものの、窓はただ壊れてしまっただけだった。歳月が過ぎて、スラッデンは出世したが、もうこの龍の都市は二度と見ることもできなければ、噂を聞くこともなかった。
空想壁のある勤め人、というのは恐ろしく地味な主人公である。勤め人という立場には平凡さが際立つ。彼に空想壁があるのは、物語の導入に無理を持たせないための配慮だろうか。しかし、主人公が平凡であるからといって、物語がそのまま平凡になるわけではない。
露天で窓を購入するときのやり取りには、ダンセイニの内にある東洋趣味とともに、物語の才能がよく現れている。売り手は謎めいた老人、魔法のアイテムを買うためには全財産を支払わなければならず、購入の約束をしたあとはキャンセルできない。このくだりは、グリムやアンデルセンを愛読したダンセイニが身に着けた魔法のお店のルールを忠実に守っている。物語の黄金の法則というのは、説明することはできるし、さらに簡単なものではあるが、それを才能のなかに取り込んで見事に再構築するのは難しい。ダンセイニはこうしたことをさらっと簡単そうにやってのける。だから、C・L・ムーアの警句が意味を成すのだ。
購入した窓からは生きた別世界が見える。これはスラッデンの空想の投影とも取れるし、別世界が存在しているとも取れる。窓が壊れるときに香辛料の香りがしたというくだりから、ダンセイニは後者として作品を書いたのだと思うが、もしも前者の解釈で作品を見ると、急に作品が皮肉っぽく見えてくる。フランス人が書きそうなフィクションになってしまう。前者の解釈はやめておいた方が無難か。
スラッデンは窓から見える都市に「黄金の龍の都」と名づける。「命名」の物語一般の法則については改めて細かく説明は要らないだろう。彼は、都市を支配していた、あるいは支配したかった、自分のものと思っていたのだろう。また、支配は被支配につながる。ある奴隷に頼り切った主人は、奴隷を手放すことができない。奴隷と主人の立場は逆転してしまう。スラッデンは命名せざるを得ないほどこの都市に囚われていたともいえる。
スラッデンは、この都市の由来を現実世界から得られないものかと探ってみたが、結果は空振りにおわる。調べのつかない旗や、この世界のものではない星座。「黄金の龍の都」は完全に別世界であることが示唆される。
「黄金の龍の都」は侵略を受け、壊滅しようとする。都市に囚われていたスラッデンは、気が高ぶり、窓を壊せばこの都市をいくばくか助けることができるだろうと考え、実行する。結果として、窓はただ壊れ、都市を助けることはできず、この先どうなったのかもわからない。物語のクライマックスである。ここで描かれる夢想の喪失は、幻想の本質を表している。幻想は距離感があればこそ成立する。高められた幻想が消失するとき、それが美しければ美しいほど、それが消え去るときの一瞬は儚いけれど世界のすべてがくっきりと映し出される。……はずだが、この物語においては、スラッデンの盛り上がりぶりはともかく、イマイチ感はぬぐえない。
結論から言えば、提示される都市に魅力がなく、スラッデンの没入に感情移入することが難しい。これがイマイチ感の原因だろう。では、なぜにこの都市に魅力がないのか。もちろん魅力がないわけではなく、物足りないというべきか。ダンセイニが描いたほかの都市を思い出してみよう。バブルクンドやマリントンムーア、ペルドンダリス、<絶無の都>、アンデルスプラッツ、ハシシュ男の語るロンドン。どれも魅力的で目が離せない。
これらの都市と比べたときに、「黄金の龍の都」は窓の向こうにあるという違いがある。「窓」の向こうに提示される幻想。ベールのようなものに覆われているとは考えられない。ベールであれば、同じ空間に観察者はいるのだから。「窓」の向こう側と観察者の側には、空間の断絶がある。断絶は想像力から身体性を奪ってしまう。想像者と想像先の乖離。これが、「驚異の窓」が小品に収まっている原因であろう。
小品とかイマイチとか連呼しているが、ではなぜに「驚異の窓」を取り上げたのかというと、作品分析をなんとなくしたくなったときに、たまたま目に付いただけで、特に理由はないのであった。