同人誌『片影』第二号の内容見本

水 晶 散 歩 文・人形制作 kao
キャトラン・ドーレ【Catran dole】とは猫妖精人のことを言います。身の丈は、わずかに小さな草花の高さを超えるほど。猫と人との顔を持ち、その姿は風のように力強くしなやかです。さらにすらりと伸びた五指からは彼らの知識の元になっているアルキセンツエ【錬金科学】を応用した想造物が見事に形づくられ、霊長として妖精界に君臨しているのでした。しかし彼らは異端の存在、天駆ける薄翅を持たず、象徴たる魔法の力はほとんど使えません。名前とは裏腹にフェアル【Fearl 妖精】になれなかった生き物なのです。 妖精になれなかった妖精人キャトラン。お話はこの妖精界で静かに幕を明けたのでした……。



円環する物語―――ヒロイックファンタジーをめぐって 小野塚 力
ウロボロス』を積読状態二十年を経て、さきほどようやく読み終えた。読後感じたのは、後悔の念であった。もっと早くこの物語を読んでいればという思いである。『ウロボロス』は、私がこれまで読んできたいわゆるジャンル「ファンタジー」作品に分類される作品の中でも屈指の出来であり、おそらくベスト3に入る作品だ。(ちなみに残り二つは、ダンセイニ『エルフランドの王女』、ピーク『ゴーメンガースト』三部作である。)
 エディスンの遺した『ウロボロス』の物語は、古風といえば古風、見る人によっては古臭さが先行する物語だ。修羅国と魔女国の英雄たちの闘争を描いた物語であり、作品の基調となるものは、前時代的な文化の徹底した称揚と科学技術への嫌悪の感情である。このあたりの空気は、先行するモリスの問題意識と重なる部分がある。『ウロボロス』の作中人物に着眼すると、そこには〈単純性〉の美徳を認めようとする作品世界の志向が感じられる。シンプルに、力強く、神話時代のような人間性の復活を『ウロボロス』の作品世界に刻みこもうとする作家の意志は激烈なものすら感じる。『ウロボロス』の序文でエディスンが「この書物は教訓物語や寓話ではなく、単なる物語として読まれるべきものである」と定義したように、安易な意味付けや解釈の一切を拒絶するものとして作品世界は定位されている。



THE DODO AND KINDRED BIRDS(ドードー鳥とその近縁種)
蜂須賀正氏著
小野塚力訳
The Giant Water-Hen(巨大なバン)
分布―モーリシャス、ロドリゲス、もしかしたらレユニオン
記述―モーリシャスの産物について、ルガはとりわけこう語っている。「多くの目撃した鳥たちの中で〈巨人〉と呼んだ鳥は、頭をあげると六フィートの高さがあった。彼等は、極端な高さをもち、大変長い首とガチョウよりも小さな胴体をもっている。翼の下の赤い斑点以外はまったくの白色をしている。ガチョウのような嘴をもっているが、ガチョウのものよりは少し鋭い。足の指は分かれており、大変に巨大である。彼等は沼地に生息している。地上から離れることがないので、しばしば犬たちの攻撃に遭う。我々はロドリゲス島でこの鳥を観察し、とても肥ったこの鳥を手で捕らえた。これは、抗うことのできない嵐の力でここへ追い立てられたことを私に実感させた唯一の例だった。肉は素晴らしくおいしい」



ラヴクラフトにおけるダンセイニ受容(2)「白い帆船」
未谷おと
「誰もダンセイニを真似ることはできないのだが、ダンセイニを読んだことのある者はたいてい誰でも一度はやってみようとするものである」――C・L・ムーア
 ダンセイニ経験をきっかけに夢の世界に遊ぶようになったラヴクラフトだが、けっして現実という重圧から逃れたわけではなかった。むしろ、現実に対してナイーブな視点を持ち続けた。この視点がやがてクトゥルフ神話の母体となる作品群を生み出し、そして後期の傑作を生んでいくわけだが、初期作品においてはまだ混迷している。まずはそれをみていこう。取り上げるのは「白い帆船」である。
「白い帆船」(一九一九)は、船に乗って夢の世界の都市を巡るという形式の同一からダンセイニの「ヤン川の長閑な日々」の再話であると指摘されている。ラヴクラフトのダンセイニ経験直後の作品ということもあり、未消化なままで形式を取り入れて執筆したようだ。冒頭に引いたC・L・ムーアの警句をそのまま体言した作品といえる。