大正期ダンセイニ紹介(楠山正雄『近代劇十二講』より)

 ダンセニー卿は、一九〇九年アベイ・シアターが『きらめく門』を上演して以来、急に知られてきた作家である。しかしこれより前に、『ペガナの神々』(一九〇五)、『時と神々』(一九〇六)、『ウェルランの剣』(一九〇八)といふ三つの空想的な作で一部に知られゐた。神々の世界の物語を綴ることは、最初からこの作家の好みであつて、ただ最初国民伝説の巣の中にはぐくまれたものが追々彼自身の胸の中に移され、または東方の瑰奇な幻想世界に求められるやうになつた。そこにイェーツの継承者といはれながら、イェーツの世界がもっぱら郷土の幽深な自然に限られてゐたのと違つて、彼の世界が一層清新で、自由な所以であるといはれる。
 むかしの神々と現代の生活に深秘を求めた軽快なまたは陰鬱な物語が次いでいくつか書かれて、『夢ある人の物語』(一九一〇)、『不思議の本』(一九一二)、『五十一物語』(一九一五)に集められた。
 ダンセニー卿の戯曲が初めて集められたのは、一九一四年の『五つの劇』で『きらめく門』の外、『アルギメネス王と無名の勇士』(一九一一)、『山の神々』、『金文字の宣言』(一九一二)、『置き忘れたシルクハット』(一九一三)の五つを収めてある。この外に『アラビヤ人の天幕』(一九一四)、『旅宿の一夜』(一九一六)『女王の敵』『神々の笑ひ』『もしも』(一九二一などの作が同じく空想と機智の一線を縫つて続いてあらはれた。卿の出世作『きらめく門』は「アイルランド文学運動の新声」として迎へられたのであるが、しかしダンセニ劇の開幕劇にすぎない小品対話劇である。どろばう同士のジムとビルが死んで天国の門の前に立つ。ビイル瓶が山になつて積んであるが、何本口をあけて見ても中はからである。遠くで誰かの嘲るやうな笑ひごゑがする。門をあけようとすると開かない。じれて、それにどろばう商売の意地も手伝つて、二人はいつも家尻を切るに馴れた手練でせつせと門をこじあける。とうとう門があく。目のくらむやうな天国の花園と思つたあてははづれて、これも中は空つぽであつた。くらい夜の空にすてきな星があてもなく光つてゐる。その途端中からはげしくいぢのわるい笑声がおこる。「ふん、奴らのやりさうなことだ。天国なんてろくでもない。」とどろばうはくやしがる。『アルギメネスと無名の勇士』(二幕)では、ダルニヤク王のために国を奪はれたアルギメネス王が、野に捨てられて奴隷たちと獣の骨をしやぶつて餓をしのいでゐる。それでも彼にはかつて王であつたといふ高貴な思出がある。食物をさがすために土を指でほり返すうちに、むかしの戦で討死にした「無名の勇士」の刀が地に錆びて埋れてゐるのを見出す。この刀は絶望の極に落ちてゐた彼に王者らしい力と勇気を快復する。彼は同志を集め敵王を亡ぼして王位を奪ひかへす。刀を掘りおこした場所に、王は無名戦士の神殿を建てる。
 この二幕を通して、強いモチーフになつてゐるのは先王ダルニヤクの飼犬である。この犬は美味に養はれて肥えふとつてゐるので、奴隷たちに羨しがられた。アルギメネス王もつゆ気のなくなつた骨をしやぶりながら、あの犬を食べたらさぞ腹にこたへようと考へたものだ。ところが運命が転換して昨日の乞食今日の王になつた時、この犬の死を家来がしらせてくる。アルギメネス王も奴隷たちも今の身分は忘れて思はずひもじさうに、「骨は。」といふ。さういひながら、王だけはさすがにすぐ王の立場にかへつて、「犬は先王と共に葬つてやれ。」といふ。奴隷の中の賢い男が、「陛下。」と諌めるやうにいふ。アルギメネス王は一年の間、先王の奴隷に追ひおとされて、彼自身が「犬」と呼ばれてゐたのであつた。
 最も成功した作は、しかし『山の神々』(二幕)で、ニューヨークの舞台を通して、ダンセニーの名を一時に世界的にした。東方のある国にマルマという処がある。そこの山に緑石で彫った七体の神がある。山をうしろにしてあぐらをかいて座って、右の腕を左の手にのせて、右の人差指で上の方を指してゐる。六人の乞食と一人のどろぼうがこの緑色の神々に化けて町へ出て、市民をたぶらかし、供物の酒食にあきる。半信半疑の町の人達がそつとマルマの山へたしかめに行くと、果たして七体の神像がなくなつてゐる。市民は安心する。反対に偽神の悪者どもは不安になる。間もなく町に噂が立つ。夕方砂漠の上を緑色の石を背負った七体の神が駈けて行くところを子供が見て、おびえて死んだといふのである。
 偽神共はいよいよ不安になつてにげ出さうかと思ふ。そこへふしぎな七体の緑色の石人が現れて彼等を指さす。偽神共はそのまま緑色の石神に、昔から伝へられた通りの姿勢をしたまま化石してしまふ。真の神々は去る。市民はあとで化石した偽神たちを見て、石神の降臨をたしかめ、いよいよ信仰を堅くする。「我々は疑つてゐた。疑つたためにまた石になつておしまひなすつた。――やはりまことの神だつたのだ。」といふ。
 かういふ軽いしかし辛辣な皮肉はダンセニーの得意とするところである。信仰の諷刺劇としては、ブリューの『信仰』やアンドレーエフの『イグニス・サナート』と主題を同じくしてゐて、調子のまるで変わつてゐるところを見るがいい。『金文字の宣告』一幕は、無心な少年少女が王宮の扉に書いた金文字の童謡が王の運命の宣言と解釈せられる諷刺的なお伽ばなしである。
『置き忘れたシルクハット』(一幕)では、紳士が仲のいい後家さんと喧嘩をして、あわててシルクハットをソファーの下においたまま出てくる。自分でとりに行くのがぐあひがわるいので、往来の人を呼びかけて頼むが、みんな何とかそれぞれの持つてまわつた理屈をつけてことはる。初めに労働者、それから店員、最後に詩人、とうとう話がこんがらがつて、店員と労働者が巡査をつれてくる時分には、紳士は家の中に入つて、とうに主人の後家さんと仲良くヅエットで弾いてゐる。
『アラビア人の天幕』(二幕)では、若い王が自由な野の生活を慕つて王位をのがれ、砂漠を越えて出て行つてしまふ。一年の流浪の後、王はどうしてもまた窮屈な王位にかへらなければならないことになつた。砂漠で出逢つた二人の駱駝追ひの一人が王に面ざしの似てゐるを幸ひ、王位と駱駝追ひの着物と取りかへこをして駱駝追ひを位につける。そして自分はもう一人の駱駝追ひと、風の行方を追つてまた砂漠へ出て行くのである。
『旅宿の一夜』では、印度の或廟から神像の額にはめた高貴なルビーをぬきとつてかへつた三人の舟乗りが、廟を守る印度の三人の僧の追跡をうけて、恐怖のあまり旅宿の主人としめし合せて僧たちを殺してしまふ。若者どもが安心して酒によつぱらつてゐると、石のやうな足音がして、こはい顔をした目のない神が手さぐりでやつて来てルビーをとつて出て行く。そして戸の外から、一人一人若者どもの名を呼んで連れて行く。『山の神々』と主題も技巧もよく似てゐる。
ダンセニーの戯曲はちよつと読むと、意識下に潜む人間の我欲と罪に対する恐怖心を鋭利に剔抉(てっけつ)して、明快な具体的表現を与へてゐる点で、またケルト人に特有な童話的空想で、現代生活の中に漂渺(ひょうびょう)たる幻想の世界を作り出してゐる点で、もう一つ、日常語を用ひながら詩的含蓄(がんちく)をもつた対話によつて、目新しい感じがしないでもないが、三つ四つつづけてよむと、勿論現実性を欠いた上に深い哲学の背景もなくて、主題も技巧も大抵同じで退屈になる。天国の門をあけると闇夜に星が一つ大きく瞬いてゐる、といつたやうな活動映画劇の場面がことにアメリカあたりでもてはやされて、有名になつたものと見える。現代式の気の利いた文芸童話の一種といへば足りるやうである。