ダンセイニ卿についておさえておきたい三つのポイント

 ダンセイニ卿(ロード・ダンセイニ)とはいったいどんな人物なのでしょうか? ラヴクラフトの師匠だったり、荒俣宏の翻訳者としてのペンネームの元ネタだったり、はたまた不定形のスライム状モンスターだったり、あるいは映画の原作者とか、さまざまな噂が流布されています。しかし、その実像については、ウィキペディア日本語版でもあいまいな記述にとどまり、いまいち理解しがたいのが実情です。ここでは三つのキーワードをもとにして、ダンセイニ卿の業績や履歴など紹介し、その実像の輪郭の一部だけでも提示してみたいと思います。

§§§ファンタジー作家§§§
 ダンセイニ卿が作品を発表して100年以上経っても忘れられていないのは、偉大なファンタジー小説をいくつも執筆したからに他なりません。宇宙創成と神々を語った処女作『ペガーナの神々』(1905)は、その特異性によって、別世界への想像力を読者にかきたてました。絶対神マアナ・ユウド・スウシャイの夢のうちに、神々と神々の作り出した世界があり、そして絶対神マアナが目覚めてしまえば、神々と世界は消えてなくなってしまうのです。モダン・ファンタジーという分野に『ペガーナの神々』が与えた影響は絶対的なものです。
 ダンセイニは続けて、『時と神々』(1906)、『ウェレランの剣』(1908)、『夢想家の物語』(1910)、『驚異の書』(1912)、『驚異の物語』(1916)などの幻想短編集を出しました。ある批評家は、この時代のダンセイニ作品を指してこういっています。「ダンセイニは自分だけの小さな鉱脈を見つけた。そこには純粋な宝石だけで成り立っている」と。この諸短編中でもっとも重要な作品をただひとつ選ぶとすれば「サクノスを除いてはやぶるあたわぬ堅塞」でしょう。ひとつの短編の中に、長編3作品分のアイデアと幻想が詰め込まれており、めくるめく冒険とその結末、意外な幕引きによって、現代作家の誰もが到達しえない高みに作品を引き上げています。
 諸長編のなかでも、もっとも優れたファンタジー長編はまちがいなく『エルフランドの王女』(1924)です。異界の王女を妻に迎えたアルヴェリックの冒険と探索を描いたこの作品は、モダン・ファンタジーの最高の到達点のひとつです。

§§§戯曲家§§§
 意外なことに、ダンセイニ卿が生前にもっとも高い評価を受けたのは戯曲という分野で、評判著しい1920〜1930年代は世界的大作家と目されていました。あのブロードウェイで5つの戯曲が同時に上演されていたという逸話が残っています。ダンセイニの戯曲をもっとも評価したのはアメリカなのです。日本でも、1920年代を中心に、東京はもちろん、北は北海道から、南は(植民地時代の)台湾まで、西は(植民地時代の)朝鮮まで盛んに上演されました。
 ノーベル賞作家イェイツに誘われて、ケルト復興運動の聖地アベイ座で上演するために、「光の門」(1909)を書き上げました。ダンセイニは最初は書くのを嫌がっていたのですが、イェイツは、「このアイデアの作品を君が書かないのであれば、他に書かせることにしよう」といって脅し、ダンセイニはある休日の午後を使って書き上げることになりました。「光の門」の初演はアベイ座でやりましたが、評判はあまりよくなかったようです。落ち込んだダンセイニにイェイツは、「サプライズだよ、サプライズ。これが重要だ」とアドバイスをしたそうです。ダンセイニの戯曲は終幕の衝撃に特徴があるのですが、このイェイツの一言が効いたようです。
 ダンセイニの戯曲でもっとも重要な作品は「山の神々」です。背景は東洋で、乞食や神々といったダンセイニお得意のガジェットを用い、印象的な台詞がたくさんあり、閉幕間際の緊張感といい、すごく面白いのです。ラヴクラフトの言葉を借りてみましょう。「就中最も声価が高いのはおそらく『山の神々』であろう。これはコングロスという街の七人の乞食が、マルマ山に鎮座まします七柱の緑翡翠の神々に化ける物語である。(中略)劇中、ニーチェを髣髴(ほうふつ)させる乞食頭(かしら)アグマールの姿は、巨匠の筆致で描かれており、古今東西の生気横溢たる劇中人物に伍して永久に生き続けよう」
 ダンセイニの戯曲作法は独特で、誰にも真似できません。後年、戯曲論を彼は大学の講演で語っているのですが、テーマの決め方は、取材などせず自分の内に沸きあがってくるのを待つ、登場人物の個性は、友人をモデルにするなどもってのほかで、ある人物の最初の台詞を書き上げたら、人物の個性はそこに凝縮されているので、それをもとに執筆していけばよいと、天才すぎて誰も参考にできない内容でした。

§§§貴族§§§
 ヴィクトリア朝のロンドンには自称貴族の怪人などもいたようですが、ダンセイニは正真正銘、本物の貴族です。金で爵位を買ったようなにわか成金貴族でもありません。アイルランドで三番目に古い血統を持ち、アイルランドの聖地タラの丘近くの領地を持つ、男爵です。本名を、エドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケットといい、第18代ダンセイニ男爵のタイトルを持っています。ダンセイニ卿(ロード・ダンセイニ)というのはペンネームです。
 同時代に生きたグレゴリー夫人も貴族でありまして、農民たちの間に入って民話の聞き取りなどをしたり、文学的にはイマイチでも明るい喜劇戯曲などを書きました。その飾らない人柄で、評判は上々でした。
 ダンセイニ卿はその反対でした。作品からはあまり感じられませんが、自らが貴族であることを強烈に意識していたようです。留学中の日本人文学者が「謁見」を求めたときは、使用人による取次ぎがあり、仰々しい格式ぶった会見になったとのこと。ピストルで鐘を撃って、使用人を呼ぶなど、仰々しいスタイルを貫きました。
 こういった性格や、センスのよくない服装もあいまって、英国・アイルランド文壇では変人ということで通っていたようです。同時代を生きたノーベル賞作家イェイツは苦笑しながら「ダンセイニはアレだからねぇ……」といったとか。