東京遠征及び文学フリマ、6月11日〜12日

東京遠征中にお会いして下さった皆様、文学フリマでお買い上げして下さった皆様、フリーペーパーを持っていって下さった皆様、ありがとうございました。幻想と古書とダンセイニに満ち溢れた実に楽しい二日間を過ごせました。この二日間で<ダンセイニ>と口から発音した回数は、世界中の誰よりも多かったに違いありません。
私は美食家ではないし、特に追求しているわけでもないのに、今回はなぜだか美味しいものをたくさん食べることができました。11日のお昼に吉祥寺で食べた中華料理は最高でしたし、12日の東京駅のハヤシライスもすばらしいものでした。東京だと、去年か一昨年に食べた神田の蕎麦も美味しかったことを思い出します。大阪に住んでいてなんなんですが、蕎麦はやっぱり東京ですね。
ダンセイニ紹介のフリーペーパーは、私の耳に届いている範囲では好評なようで大変うれしく思います。つくった甲斐があるというものです。手にとって、そして読んで下さった方に感謝いたします。
『片影』三号は持ち込んだ分はすべて売り切ることができました。お買い上げくださった皆様、ありがとうございます。在庫はまだあります。古書肆マルドロールさんにて通信販売で扱っていただいています。よろしくお願いします。
http://www.aisasystem.co.jp/~maldoror/
PEGANA LOST freepaper edition vol. 1.0は<フリー>です。ですから、ご自由にコピーして、再配布して下さってもかまいません。ただし、その際は全ページをコピーしてください。また、複写にかかった経費以上にお金は取らないでください。
実物からだとコピーの際に裏写りしていやだという神経質な方や、文学フリマに行けなかったという方は、未谷おと(pegana@mb.infoweb.ne.jp)までご一報ください。元ファイル(WORD2003で作成)をお送りします。ただし、フォントはご自分で用意してください。(FC平成明朝体、FC中太明朝体、CENTURY、GoudyHeaD)まあ、
次回の文学フリマなのですが、日取りが平日の真ん中という地方在住には辛い状況ですので、やめておこうと思います。

文学フリマ出展

6月12日の文学フリマに出展します。
スペースはK-02西方猫耳教会です。
ぷひぷひさんの隣です。
二人でならんで翻訳ものが並びます。

西方猫耳教会としては、新刊はないのですが、8ページのフリーペーパーを造りました。これから本文チェックしてコピーにいきます。
内容は次の通りです。

PEGANA LOST freepaper edition vol 1.0
●●ダンセイニ卿再入門講座●●
 ●<ペガーナ神話>●
 ●<初期短編>●
 ●ラヴクラフトにおけるダンセイニ●
 ●ダンセイニ卿の履歴●
 ●Lord Dunsanyの訳語についてのマニア的論争●
●●渡し守●●
ロード・ダンセニイ著 松村みね子
 ●「渡し守」解説●
●●ダンセイニ卿読書案内●●

「再入門講座」ではページ数が足りないので、長編と戯曲とジョークンズについて書けませんでした。そのうち書き足したいと思います。

幻影文藝雑誌「片影」第三号も持っていきます。同人誌のイベントでは初売りになります。内容は次の通り。

内容は次の通り。

五   水晶散歩(3)  kao(堀内薫)
四八 『水晶散歩』世界の紹介(再掲)
五二  黄金律の探索者 星新一試論  小野塚力
一〇九 超短編のセカイ 第一回  松本楽志
一一四 ラヴクラフトにおけるダンセイニ受容(3)  未谷おと

既刊は、ペガーナロスト9−12号、『夢源物語 ロリーとブランの旅』を持っていきます。ペガーナロスト11号は残りわずかとなっています。具体的に販売部数としては二部しかもって行きません。

当日はよろしくお願いします。

なお、ペガーナロスト、『夢源物語』、片影はそれぞれ古書肆マルドロールさんにて通信販売を扱っていただいています。こちらでもお買い上げいただければ幸いです。
http://www.aisasystem.co.jp/~maldoror/

文学フリマに参加申し込みをした。

6月12日に開催される文学フリマに申し込みをしました。
応募者多数の場合は抽選ということです。

文学フリマ公式サイト文学フリマ | 小説・評論・詩歌 etc.の同人/商業作品展示即売イベント

とりあえず、以下を持ち込むつもりです。
幻影文藝雑誌「片影」三号(新刊)
ダンセイニ研究誌「ペガーナロスト」9〜12号(既刊)
ダンセイニ長編翻訳「夢源物語〜ロリーとブランの旅」(既刊)

時間があればなにかコピー誌とかやります。

ツイッター

ツイッター登録しました。
発言の半分ぐらいがダンセイニ関係です。
お暇な方はどうぞー。
http://twitter.com/mitani_oto

ついでにmixiも晒しておきます。
ちゃんとリンクされていますか?
http://mixi.jp/show_friend.pl?id=77343

hideの「ピンクスパイダー」とダンセイニの「都市の王」とラヴクラフトの「アウトサイダー」

今回も無理やりなテーマなのですが、hideの「ピンクスパイダー」を取り上げてみようと思います。ダンセイニの「都市の王」とラヴクラフトの「アウトサイダー」もなぜか一緒に話題に入ってきますが。

ファンタジー愛好家にはhideの名前はまったく知られていないと思うので、木村カエラの場合と違って説明をしておきます。彼は伝説的なバンドX JAPANのメンバーとして、ギターを担当し、ビジュアル面にこだわった活動をしてきました。X JAPAN解散後はソロ活動をしていましたが、まだまだこれからというときに急死しました。享年33歳。若くして亡くなったことから余計に伝説のカリスマ扱いされることになりましたが、様々な活動の中で実績を積んできたhideにはその資格があるように思います。

hideとダンセイニには、はてしなく遠い結びつきがあります。hideがX JAPAN以前に加入していたバンド「横須賀サーベルタイガー」には後にソロ活動をするkyoがメンバーとしていました。このkyoの4thアルバム「ZOO」のジャケットに用いられたイラストはシドニー・サイムの「お化け動物」シリーズを使用しています。(ちなみにイラストは画集からの転載ではなく原画を使用しているので、すごくきれいな印刷に仕上がっています。イラスト目当てであれば、同時期に出版された雑誌の広告の方が大きな画が手に入ります)サイムはいわずと知れたダンセイニの初期短編集のイラストレーターです。どうでしょうか。常識的に考えるならまったく縁がないのですが、マニア的な偏屈で結びつけてみました。

ピンクスパイダー」はhideの没後すぐに発売され、100万枚を超えるヒットを飛ばしました。「ROCKET DIVE」「ever free」と合わせて三部作とされていますが、合わせて解釈するとあまりにややこしいので、今回それは無視してテキスト起こしをしていきます。

物語はこうです。ピンクスパイダーは狭い世界に生きていて、そのことにあきらめを抱いていました。そこに極楽鳥がやってきていいました。蝶を羽根をもらって、空にきたらと。ピンクスパイダーは翼を手に入れるべく蝶を襲いました。蝶に向かっての恨みはありません、ただ空が高く、羽根が欲しかっただけなのです。羽根を奪われた蝶はいいました。飛び続けるつらさにあなたもいつか気づくでしょう。誰かの手の中で飛んでいて、それを自由と読んでいたことにも、と。借り物の翼で飛んだピンクスパイダーですが、うまくいかず墜落してしまいます。落ちる中で、ピンクスパイダーは本物の翼が欲しいと願います。そして、ピンクスパイダーはもう一度空へと飛び出そうとします。空が呼んでいるのです。さて、ピンクスパイダーははたして空を飛べたのでしょうか?

様々な解釈が可能な歌詞世界です。hide急死の際には世界への絶望を歌ったのではないかといわれたこともあったそうです。「ピンクスパイダー」が奪った翼で飛ぼうとして墜落するあたりには確かにそんな解釈もできるでしょう。しかし、「ピンクスパイダー」は最後に再度の空への挑戦を表明しています。絶望的な状況の中でも希望を捨ててはいないのです。

ダンセイニ「都市の王」にも蜘蛛が登場します。この中で蜘蛛はお話のオチとして現れます。「川」や「道」たちが自分たちは結局のところ人間に奉仕する存在ではないのかと議論していると、蜘蛛がやってきていいます。都市は蜘蛛のためにある。人間たちがやがて去ったあとで都市の王になるのは蜘蛛なのだと。ダンセイニ初期短編によく表れる都市テーマを変則的に扱った作品です。ここに登場する蜘蛛は人間の全能ぶりを茶化す存在です。彼は自分に与えられた(と思い込んでいる)役割に忠実で、疑うことをしません。ピンクスパイダーに比べるとかなり能天気といえなくもありません。実際、ダンセイニには実存の悩みなどほぼないように思われます。(人間と世界のかかわりに関する他の悩みはありましたが)

ピンクスパイダーは最初から渇望の状態にあります。自由への渇望です。それもかなり手の負えない状態まで追い詰められていることがわかります。なんといっても「近づくものは なんでも傷つけ」るまでになっているのです。自分の内側に閉じ込めておくことができないぐらいというわけです。あきらめ混じりに、「これが全て どうせこんなもんだろう?」と嘯きますが、それも渇望の裏返しにすぎません。本当にあきらめた人間は何もつぶやいたりしないものです。

では、ラヴクラフトはこんなときにどんな対処をしたのでしょうか。それは作中に矛盾を抱えながらも迫力のある筆致で描き出した「アウトサイダー」に答えがあるように思います。長い間古い城に一人で住んでいた「おれ」は、あるとき人間たちのパーティに紛れ込みました。すると、人間たちは一人残らず逃げ出してしまいます。それは怪物が現れたからです。「おれ」は怪物を見つけますが、それは鏡に写った自分自身であったのです。「おれ」は逃げ出し、古い城ではないところに逃げてしまいました。

「おれ」の状態はピンクスパイダーよりはるかに深刻です。孤独の中で生きてきて、自由への希求もほとんどありません。さらに他者とのコミュニケーションで最初で最後に教えられたことは、自分が怪物であり、避けられるべきものであることなのです。逃げ出す先は故郷である古い城ではなく、古代の墓なのです。帰るべき故郷もなく、他者からは避けられ、自分は怪物であると規定してしまいます。ピンクスパイダーの文脈にそって表現するのであれば、空への渇望もなく、極楽鳥は逃げ出し、四角い空が見える巣からも逃げ出してしまうという感じでしょうか。

能天気なダンセイニ、絶対的な厭世感のラヴクラフト、その中間のhideという図式が見えてきましたが、ことはそう単純ではありません。ダンセイニが心を砕いたのは文明によって自然を破壊している人間はいずれ絶滅する、人間は文明を捨てなければならないということでした。ラヴクラフトにしても逆説的ですが「恐怖」のなかに自分の自由を見出しました。hideが「ピンクスパイダー」で表現したのは、絶望的な状況でも自由への希求を忘れないでいてほしいということでした。

唐突にhideについて語りたくなったのは、仕事中に流していたラジオから突然に「ピンクスパイダー」がかかったところに出くわしたからです。古い友人がhideのファンで彼が亡くなったときにいろいろ語ってくれたのを思い出しました。それを聞いているときはどうでもいいことだと考えていました。ところがだいたい10年ぐらいが過ぎていまこの曲を聴いてみると、ひどく心に響くことに驚きました。歌詞に地の文が少なめで、対話的な表現が多かったので、葛藤の中でこの歌詞を書いたのだろうと気が付いたあたりで、何か書かなければならないなあと思うようになったのです。

さて、書くだけ書いて肩の荷が下りたので、「片影」三号の編集に戻ります。一応、一月下旬発行を目標にしております。いまの進み具合だと難しそうですが。うーむ。

*[木村カエラ]「butterfly」にみる木村カエラの健全さ

 木村カエラの楽曲に「butterfly」というものがある。結婚情報誌か何かのCMに使われていたのでご存知の方も多いではないかと思う。私などは仕事中にラジオでこれを聞いて、思わず泣きそうになった。別に、現在四歳の娘が結婚するところを父親の立場から想像して泣きそうになったのではない。いい歌なのだ。すごくいい歌なのだ。結婚式に使われる歌の新しいスタンダードになりうるのではないかと密かに愚考している。(実際のところどうなのかはブライダル業界に詳しくないし、それに人様の結婚式などどうでもいいのだが) 
 なぜ「butterfly」が新しい結婚式ソングのスタンダードになりうるのか。それはこの歌の持つ健康的な健全さが、多くのひとに希求される可能性を多く含んでいるからである。花嫁を蝶に喩え、蝶が花=花婿を探すという物語には普遍性がある。その普遍性は、蝶は花にとまるものという自然界の法則に裏打ちされており、非常に強固である。また、蝶のイメージには、飛翔するもの、高い位置にあって祝福されるものとしての機能がある。さらに、「光の輪」という言葉にはイメージを広げ、実物の蝶ではなく、あくまで想像上の「白い羽」の蝶を想像させる。虫が嫌いであっても、想像上の、光に包まれた高貴な蝶というイメージを否定できないだろう。
 これまでの結婚式ソングでよく知られているのは安室奈美恵の「can you celebrate?」だろう。比較してみようとして、歌詞を改めて見てみて少し驚いた。暗い時代、愚かな時代からの脱却が語られ、その比較で祝福を昇華させようとしている。おそらくは安室の歌唱力によって比較的的であることは意識されないできたのではないだろうか。「butterfly」の祝福はイメージを広げていくことによって達成されている。安室は比較的的であり、カエラは直接的的であるといえるだろう。どちらが結婚式にふさわしいかというと、忌み言葉が嫌われる祝福の場にあって、直接的的であることは優位性を持つ。
 私がもっとも好きなフレーズは、「幸せだよと/微笑んでる/確かなその思いで/鐘が響くよ」のところだ。物理学的には、あるいはそこまで仰々しい単語を使わなくても、常識的に考えて「思い」によって直接的に「鐘が響く」わけではない。結婚式の鐘は常に人間の手によって鳴らされる。思いで鐘が響くというこの部分の飛躍が意味するのは、無私の祈りの一形態である。言い換えるなら、純粋無垢な祝福というべきだろうか。通常では手の届かないところに、手が届く。友人が言うには奇跡の定義のひとつに、死だけがあるところに命が生まれるというものがある。この飛躍は、祝福を純化したがための奇跡の表れなのだ。
 分析に気が取られて、タイトルのカエラの健全さについて話するのを忘れていた。カエラは「butterfly」において、喜びを喜びとして語っている。これを喜びの歌というカテゴリから比較してみよう。対応するのはyukiの「joy」である。なぜyukiを取り上げるのかというと、私が昔から好きで聞いており、その楽曲が表す世界観に詳しいからであって、また他に比較すべき適当な楽曲を知らないからである。「joy」の表しているのは、生きていくことの困難さを前提として喜びを作り上げていこうというものである。yukiは喜びを語るにも、まずは世界が困難であることから比較せずにはいられない。古い擦り切れた言葉でレッテルづけするのであれば、yukiは根暗なのである。
 突然だが、ここでダンセイニ作品との比較をしてみる。古典ファンタジーとJ-POPとを比べるなんて無理やりというか、意味があるのかわからないが、このブログはダンセイニを扱うと決めているので、とにかくやってみよう。
 ダンセイニの作品としては短編「椿姫の運命」をとりあげてみよう。椿姫の魂は、二つの目を持った花として地獄へ続く道の傍らに咲いていて、挿絵に描かれたそれはまるで蝶のように見える。あらすじはこうだ。非業の死を遂げた椿姫の魂を地獄行きから救おうと天使たちが命令に背き、主に剣でなぎ払われる。ダンセイニは本当に語りたいことは言葉にしない。最後は読者の想像力にゆだねる。そのかわりに読者の想像力を喚起するためのシンプルで力強い言葉をつむぎ出す。地獄への路傍で花となった椿姫の魂。それはとても美しいイメージであるが、その提示だけでは想像力のドアは開かない。椿姫を救った天使が主の剣になぎ払われるとき、その一瞬、その一行だけのセンテンスが槌となってドアを開く。
 「butterfly」は直球である。一行目「どんな時より/素晴らしい」と、三行目「どんな君より/美しい」で韻を踏んで、二行と四行で「赤い糸」「白い羽根」と紅白のめでたいイメージを作っていく。ダンセイニが最後の一行に向かって収束していくのであれば、木村カエラは空へと拡大していく。想像力の喚起性について二人の作品はまったく違った様相を見せている。そして二人とも素晴らしい。