ダンセイニ「妖精族のむすめ」について

「サクノス」や「バブルクンドの崩壊」ほど大きくは評価されていないが人気のある短編に「妖精族のむすめ」がある。物語はこうだ。
沼地に住む「野生のもの」の一人は、教会から漏れ出る幻想美に憧れ、仲間の作り上げた偽の魂を使って人間の美しい娘に変身する。偽の魂では天国に行くこともできないし、元にもどりたいのであれば、魂をもっていない人間を見つけてこれを渡さなければならない。農家の夫婦に発見された娘は、町の教会に引き取られる。しかし、集会の際、娘は不用意なセリフを言ったため、地方都市の工場に送られてしまう。そこで労働することになる。
地方都市に美しいものは何もなく、娘は沼地に戻る決心をする。辛い労働の慰みに、娘は唄を歌う。その歌が偶然通りかかった有名オペラ歌手に見出され、ロンドンでデビューすることになる。ロンドンでの初公演で、娘はついに魂を持たない夫人を発見し、偽の魂を渡すことに成功する。偽の魂がなくなった娘は、もとの「野生のもの」に戻り、沼地まで喜び勇んでかけ戻るのだった。
物語は、もはや人間の住むところではない最辺境の沼地からはじまり、町から地方都市へ、そして人間の世界の中心であるロンドンに辿り着き、そこでクライマックスを迎えたあと、また沼地へと戻る。周辺から中心へと向かい、そしてまた周辺に戻る。単純だが効果的なつくりになっている。
主人公の「小さき野生のもの」は、最辺境の地でこそ人間の作り出す美に憧れはするものの、物語が進むにつれて、次第に人間の文明に幻滅していき、ついにはもう二度と沼地を離れないと宣言する。「小さき野性のもの」が唯一心の慰めとするのは、教会が与えてくれる神秘的な幻想ぐらいのものだ。そして、幻滅が最高潮に達したときに、開放が訪れる。
「小さき野性のもの」を開放するのは魂をもたない夫人だった。作品内では強調されないが、偽の魂をもらった夫人は天国に行くことができない。作品内にメインテーマとは別に小さな悲劇が隠されているのだ。またここでは、人間と神秘の融合が行われている。このテーマは形を変えて、後年『エルフランドの王女』につながっていくことになる。考えて見れば、沼地はエルフランドにつながっているのは間違いないのだから。
物語の終わりに、ダンセイニが現れ、沼地で鬼火が盛んに踊っており、何か喜びごとが彼らにあったのだろうと告げる。悲劇の後に訪れる小さな喜び。この作品の閉め方は、間接的に「野生のもの」たちの喜びを示すことで、読者にその喜びを想像させる役割を持っている。読者は想像することによってこの作品世界で長くとどまることになる。「妖精族のむすめ」が余韻のある作品であると評価されるのもこうした終わらせ方をしているからだ。
そして、この終わりは、「サクノス」ほどではないが、作品世界を突き放している。物語は内部にとどまっている限りいくらでも続けていくことができる。しかし、客観性を持ち出されると、物語は閉幕してしまう。この作品世界は二度と使いまわしできなくなってしまう。軍人として、貴族として世界と向き合ってきたダンセイニならではの自我の強さがなければこういうことはできない。
辺境から中心へ。閉塞から開放へ。構造は単純かもしれないが、これを物語と融合させるダンセイニの手際のよさは他の作家にはない独自のものであるといえるだろう。